🍉しいたげられたしいたけ

NO WAR! 戦争反対!Ceasefire Now! 一刻も早い停戦を!

もう一人の自分自身の正体は誰か?(間奏曲〔インテルメッツォ〕)

自分の書いたものを自分で再読した感想です。

わかりにく~っ!(TДT;

仮にも人様に読んでもらおうというものを、自分で「わかりにくい」とはなんたる言語道断! 三行でまとめろ! ごもっとも。ということで、ちょっとでもわかりやすく書き直せないかもう少しじたばたしてみます。

スポンサーリンク

 

 

このすぐ後1~2年のうちに、 茂木健一郎氏や池谷裕二氏といった脳科学の人が登場してクオリアという言葉がそこそこ一般化しました。茂木氏は今でこそ電波芸人みたいに見られるている向きもありますが、クオリアという言葉を引っ提げて論壇に登場した時は、やっぱり新鮮だったんですよ。池谷氏は「ほぼ日刊イトイ新聞」とタイアップして一般の知名度を獲得しました。茂木氏のどれを読んだかは覚えてないので(探せば出てくると思います。なにせ著書の多い人なので)、池谷氏の「海馬ー脳は疲れない」の書影だけ貼っておきます。私が読んだのは「ほぼ日ブックス」版でしたが。

海馬―脳は疲れない (新潮文庫)

海馬―脳は疲れない (新潮文庫)

 

クオリアというのは、我々が今見ている視覚そのもの、今聞いている聴覚そのものを意味します。この言葉を使わせてもらうと、もうちょっと簡潔に説明ができるかも知れません。

我々が音声を認識するとき、クオリアだけでは不足です。音のクオリアは一瞬で消えてしまうからです。そこで我々の意識作用は、その短期記憶を作り、入射するクオリアと短期記憶を総合して「音」と認識しているのです。

でないと、単音だけでは音楽にならないではありませんか。でないと、単音だけでは単語として理解できないではありませんか。

我々が画像を認識するときは、もうちょっとだけ複雑です。視覚のクオリアは一瞬では消えず継続して存在するからです。しかし、我々が対象から少し視野を移動しただけで、それまで焦点を当て注視していたものの輪郭はたちまちぼけてしまいます。周辺視というやつです。また我々の視界は、思ったより狭いのです。我々は頻繁に視線を移動しスキャンすることによって、なおかつその都度視覚のクオリアの短期記憶を作ることによって、視覚のクオリアと視覚のクオリアの短期記憶を総合したものを「画像」と認識していると考えるべきです。

聴覚と視覚に関してのみ述べましたが、これは五感の全てに言えるはずです。

次に、我々の意識自体もクオリアなんです。これは誰かがどこかに書いたのを読んだ記憶はありませんが、異議は少ないことを期待します。デカルトのコギトです。

そうすると、クオリアの短期記憶を作るという我々の意識作用は、我々の意識自体に対しても適応されると仮説することはできないでしょうか? むしろ意識というものを、意識のクオリアと意識の短期記憶の総合体として再定義すべきと考えます。

もしこの仮説を認めてもらえるのであれば、タイトルの問い「もう一人の自分自身の正体は誰か?」に対する解答が導かれます。もう一人の自分自身の正体は、意識のクオリアの短期記憶なのです。

以上を三行にまとめてみます。

1.我々は、クオリア入射と同時にその短期記憶を作り、クオリアと短期記憶を総合したものを「世界」として認識する。

2.意識のクオリアも存在する。意識のクオリアの短期記憶も作成される。我々は、意識のクオリアと意識のクオリアの短期記憶を総合したものを「意識」として認識する。

3.我々が自分自身の意識を認識しようとしたとき、意識のクオリアの短期記憶だけが認識される。ここに、認識される自分自身が自分自身でない、もう一人の自分自身であるような錯覚が生じる。すなわちもう一人の自分自身の正体は、意識のクオリアの短期記憶である。

三行とは言わないなぁコレ(^_^;

いくつかの補足説明というかエクスキューズです。短期記憶という語を未定義で使いました。脳科学の知見が一般化するにつれ、一般にも認知された言葉だと思ったからです。本来であればきちんと文献に当たって定義を示すべきでしたが、今すぐには本が取り出せないので。

意識作用という言葉も未定義で使用しました。「意識作用は意識ではないのか?」という当然の疑問は出てくると思います。今は「意識作用は意識ではない」「意識作用は無意識である」とだけさせてください。ちょうど我々が視覚作用がどのように実現されているかを意識も知覚もできないように。聴覚作用がどのように実現されているかを意識も知覚もできないように。

こう考えることが何の役に立つかということですが、何度か書いたように、私自身が、自分自身が存在することに対する不安・恐怖から逃れるためです。哲学的な(という表現をお許しください)問題は、他の学問の諸問題を解決するように解決されることは、まずありません。ある問題を既知の別の問題に帰着させたり、問題自体を相対化、すなわち眼前の絶対的に立ちふさがる絶壁のようなものから、一つ一つは正面衝突回避可能な諸問題の一つに還元することも、やはり解決なのです(違ってたらゴメン!)。

つか、我々の悩みが、我々の存在する構造そのものに起因するというアイデアは、知的好奇心をそそりませんか?

現象学はどこ行った? すんません、どっか行っちゃいました。

たくさんのブックマークコメントをいただき、ありがとうございました。一つ一つに回答すべきところですが、その余裕がないことをお詫びしご容赦をお願いします。

一つだけ。

もう一人の自分自身の正体は誰か?(その2) - しいたげられたしいたけ

この連載が終わったら、質疑応答の時間とかありますか?

2015/11/20 04:04

b.hatena.ne.jp

連載終了後といわず、コメントなりブコメなりでいくらでもご質問ください。

つか「その1」のブコメを読んで mugi-yama さんは哲学畑の人なんだろうなと思いギクッとしました。多分、会話をすると mugi-yama さんを失望させることになると思います。すでにお気づきの通り、私は門外漢、ドシロートで、レベル低いです。

むしろ、以前のエントリー “日本の教育行政はそもそも何を目的としているのか” のときのように、もし弊ブログをお題として他の人のブログを読めたら大いに嬉しいなと思っています。

連載はあと2回分ありますが、レベルはさらに下がります。敷衍と言いつつ、同様のアイデアを他の問題に適用できないかといろいろ並べ立ててはみたものの、未解決のまま放り出したりしています。おもちゃ箱をひっくり返して片付けないままにしたようなものです。ゴミとまで言うと、さすがに卑下し過ぎで読者登録していただいてる方に悪いのですが。

スポンサーリンク