🍉しいたげられたしいたけ

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もう一人の自分自身の正体は誰か?(その1)

前口上

ネットの話題で触れておきたいと思いながら時機を逸してしまった話題です。時機を逸したどころか、元ネタがどれだったかも失念してしまった始末です。確か「はてな匿名ダイアリー」(「はてな」内部での通称「増田」)だったはずです。後でもう少し探してみます。

「増田」に触発されて、今から10年以上前にネットの某掲示板*1にアップした自分の文章を思い出しました。しかし検索したら、掲示板ごと消えてしまっていました。

なんとなくネットのどこにも痕跡が残らないのは寂しいなと思って、昔のパソコンのバックアップCD-ROMを探したところ、掲示板に書いた文章そのものは出てこなかったのですが、掲示板にアップした内容を少し改造して、名古屋の小規模な読書サークルの会報に載せてもらった原稿が出て来ました。正確な日付は残していませんでしたが、ファイルのタイムスタンプは2003年8月になていました。

それを、自分のブログに再掲することにします。

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万人向けの内容ではありません。あくまで自分自身が精神的な苦しさから逃れようとあがいた記録です。「哲学」タグというのを新設しました。「哲学」というのは少しおこがましいですが、リアルで複数の哲学プロパーの人にも読んでもらって、少なくとも「なにをいってるんだふざけんなばか」的な反応は帰ってきませんでしたので、開き直ることにします。

文章には新たに手は入れていません。12年前の文章となると、自分のものであって自分のものでないようなものです。手を入れるとしたら換骨奪胎することになりかねず、そうするとまたしても時間かどれだけかかるかわからないからです。

 

 Ⅰ

 0.

 「自分自身」ということを深く考えようとすると、「自分自身」を見つめているもう一人の「自分自身」の存在に気づくことがある。時として、なにかしらたまらぬ不安を感じることがある。
 もし「自分自身」が存在しなければ世界自体も存在しない(かもしれない)のに、「自分自身」が存在することに対して、なぜかくのごとき不安を感じるのか?
 実は、いわゆる「現象学」のごく初歩の手法を適用すると、その「理由」を案外単純に説明できるのではないかということに気づいたので、その思いつきを、まずは書き留めておきたいと思った次第である。

1.
 月並みながら、まずはコギトをスタート地点に定めよう。
「我思うゆえに我あり」
 この「あり」というのは何か?私自身の意識でもよい。今この瞬間、私の目の前にある光景(具体的にはこれを書いているパソコンの液晶ディスプレイなのだが)でもよい。確かにそれは「ある」。この最初の一歩はゆるぎない。次の二歩目をどこへ踏み出すかであるが、私は次のように踏み出してみたい。

2.
「ちょっと待て!だがしかし」
 意識と感覚はやっぱり違う。同じ感覚でも視覚と聴覚は歴然と違う。どこから手をつけたらいいのかわからないぐらい大きく違う。

 手のつけやすいところから手をつけるしかない。視覚は持続的である。視線を移動しなければ、いくらでも気の済むまでその「存在」を確かめることができる。対照的に聴覚は「ある」と思ったときにはその「存在」は失われている。
 例外もある。持続的な音もある(今現在、私の耳に届いているパソコンのファンの音とか)。だが「意味を持った言葉」を考えてみよう。われわれが言葉の意味を認識したときには、聴覚自体の存在は確実に失われている。だがやはり「言葉」は存在するのである。より正確には、われわれは聴覚の存在が消失した後も「言葉」の存在は疑わない、と言うべきか。コギトとほぼ同程度の確信の度合いで、「言葉」の存在を疑わない。

3.
 再び「ちょっと待て!だがしかし」継続する聴覚というものがありうるように、継続しない視覚というものもありうる。継続する視覚、継続しない聴覚と同様、ありふれたものである。
 そもそも3で「視覚は持続的である」とした前提に「視点を移動しなければ」と断ってしまったが、これは、とりもなおさず「視点を移動すれば」「視覚は持続的ではない」ということに他ならない。そして我々は常に視点を移動する。

4.
 このとき我々は「視覚」が消失した後も「視覚」から「意味」を読み取ってそれに基づいて行動している。これは3で言及した「聴覚」と「聴覚」が消失した後の「言葉の意味」との関係と同じであろう。

 具体例を挙げればこうだ。かりに我々が電車のホームにいるとする。このとき我々が直接に目にするものは、ホームのコンクリートであるとか、側面にさびの浮かんだレールであるとか、赤く変色したレールの敷石であるとかである。
 だが我々の脳裏には、すでに消失した視覚の記憶である跨線橋の階段であるとか改札であるとか、駅前のバスターミナルであるとかの「意味」が存在し、「自分はいま、どこそこ向けの電車を待っている」という「意味」を認識しているのである。

5.
 もし、すでに消失した視覚から読み取った「意味」が我々の脳裏に存在しなければ、仮に我々の目前に「ホームのコンクリート」「さびの浮いたレール」「赤い敷石」といった視覚が存在したとしても、我々はそれを理解しないであろう。
 SFめいた乱暴な思考実験だが、もし物質転送機のようなものを使って我々が直前の記憶なしにそうした光景の中に投げ出されたとしたなら、我々はどうするであろうか?まず一瞬、途方にくれるであろう。そして、次の瞬間、立ち上がり、歩き回り、今自分がどこにいるのかを理解しようと試みるにちがいない。つまり「意味」を求めようと試みるであろうということだ。
 これは、我々が行動し生活してゆくためには「感覚」と「意味」の両方が必要であることを、はしなくも明らかにしている。

6.
 ここで第一段階の結論をまとめると、我々は「感覚」=「感覚器官への刺激」と「意味」=「感覚を解釈して得た情報」から構成される「現実」の中で生きている。
 つまり我々の生の体験というものは、実は「感覚」と「意味」の複合体であった、ということである。そして後者はまぎれもなく我々の精神活動の一種なのである。思考、想起、空想、妄想、等々の同類に区別されるべきものなのである。

7.
 もうひとつ強調しておきたいことは、我々には「感覚」=「感覚器官への刺激」の入射を受け取ると、それを瞬時に「解釈」して「意味」を抽出するという能力が備わっているということだ。

 この能力はあまりに頼もしすぎて、我々が日常生活で意識することはめったにないほどである。だがそういった能力が存在するということもまた、次のような具体例を引けば異論はあるまい。
 我々が母国語でなく不慣れな外国語を聴き取り理解しようとするとき、「感覚」=「感覚器官への刺激」の入射から「意味」の抽出を完了するまでの時間は、「瞬時」ではなく認知可能なほどに長くなることがある。
 ラジオ英語講座か語学テープかで、ネイティヴスピーカーの外人が何かの単語を繰り返し発音しているのを耳にしたとする。当初それは「にゃーご」「にゃーご」と猫の鳴き声のようにしか聞こえない。だが何度か繰り返して耳を傾けるうちに、最初の子音はnではなくmであることに気づく。そして「ご」に聞こえたのは、k+lであることに気づく(よくふざけてpineappleをパイナポーと、wonderfulをワンダホーと表記することがある、あのl音である)。そうすると、ようやく「みゃーくる」=miracle=「ミラクル」と言っていたのかと理解する、といった経緯の場合である。

8.
 この「認識」→「意味」を抽出するという能力は、メタである。すなわち我々の精神活動自体も、その対象とすることができる。
 我々は自分自身の精神活動の存在を認識することができる。この際に「意味」の抽出はやはり同時進行しているのである。

 一言で言ってしまえば、小学校の先生が生徒に
「自分が今、感じていることを作文にしなさい(=言葉にしなさい)」
と言うとき、この先生は生徒の「認識」→「意味」を抽出する能力を信頼しているのである。

 そしてまさしくここに、「認識する自分」と「認識される自分」の乖離が生まれる構造が成立する。「自分ってなんだろう?」と不思議に思うことは、小学生や、未就学児にも可能なのである。

(続く)

*1:「したらば」の「現代思想掲示板2 自主会議室 <喫茶アトリエ>」というところです。パソコン通信niftyの現代思想フォーラムの残党が集っていたところでした