🍉しいたげられたしいたけ

NO WAR! 戦争反対!Ceasefire Now! 一刻も早い停戦を!

一坂太郎『高杉晋作』(文春新書)を読み返した

読書日記が長く中断している。年を取って活字を読むスピードが著しく遅くなっていることと、一度読んだ本を読み返すことが増えているためだ。
だけど検索できるというメリットがあるので、ブログには残しておいた方がいいと感じることが、たびたびあった。だから再読でもエントリーに上げることにする。

高杉晋作 (文春新書)

高杉晋作 (文春新書)

なんでこの本を読み返したかというと、薩長同盟と坂本龍馬の実像(に近いもの)が描かれていたはずだったので、確認したかったためだ。
ちゃっちゃっと引用できるほどの長さだったかなと思ったが、記憶というのはあてにならないもので、何ページかにわたってみっちりと描かれていた。
まずP201の、書名になっている高杉晋作が主人公で龍馬も桂小五郎も出てこない部分から。

 晋作が琴平に潜伏していた頃の話である。二人の浪人者が晋作のもとを訪ねて来た。ひとりは久留米の古松簡二、いまひとりは水戸の斉藤佐次右衛門である。とくに斉藤は、薩摩藩の西郷吉之助の密命を受け、犬猿の仲にある長州藩との提携のために奔走しているという(『維新史料編纂会講演速記録』)。
≪中略≫
 ところが斉藤の説得を受け晋作は、最初から相手にならなかった。それは憎悪の念からではない。このような重大事を、一介の浪人に持って来させる、西郷のやり方を疑ったのだ。こんな話に安易に乗ったら、長州藩の立場は最初から低いものとなる。晋作は、薩摩藩にその気があるなら、必ずや正式な使者を寄越して来ると考えた。

斉藤佐次右衛門は、どれかの本に「坂本龍馬になりそこなった男」として紹介されていたことが、記憶に引っかかっている。同じ著者の『幕末歴史散歩 京阪神篇 (中公新書(1811))』だっただろうか? 間違っていたらすみません。これから確認します。
(追記:10/21 違っていたようです。まだ見つけていません)
坂本龍馬が登場するのは、上の引用部の直後からだ。

 薩摩藩としても、浪人を利用し探りを入れた程度のことであろう。同じころ、西郷は土佐の脱藩浪士で薩摩藩の庇護下にあった坂本龍馬を下関に送り込み、桂を説かせている。
 ところが桂は軽率にも、龍馬の話に乗ってしまう。龍馬は下関に西郷を呼び、一気に両藩を提携させようと述べたのだ。この時期、西郷が下関に足を踏み入れるなどあり得ないことは、冷静に考えれば分かることである。桂ほどの男でも、藩主父子の復権を焦るあまり、判断を誤
ったのだろうか。
 案の定、西郷は桂に二週間も待ちぼうけを食わせたあげく、下関には現れなかった。恥をかかされた桂だが、話を持って来た相手が一介の浪人だから、文句も言えない。

(P202)
2ページほどおいて、いよいよ薩長同盟の締結される場面である。

 慶応二年一月四日、木戸らは海路、大坂に到着。ついで京都二本松の薩摩藩邸に入った。そして西郷・大久保利通・小松帯刀・桂久武・吉井幸輔らと密議を重ね、薩摩・長州両藩を提携させることになる。
 交わされた密約は、長州藩と幕府の間に戦端が開かれた場合、開かれなかった場合、勝った場合、敗れた場合などを想定する。その上で薩摩藩がいかなる政治工作を行い、長州藩を救うかというものだった。この時期、まだまだ慎重な薩摩藩は、積極的に長州藩と共に幕府と干戈を交えるような態度は示さない。それどころか、成文化された書面一枚すら作ろうとはせず、証拠は残らなかった。
 不安にかられた木戸は、薩摩藩との間に交わされた密約を六ヵ条にまとめ、一介の浪人に過ぎない坂本龍馬に裏書を依頼した。龍馬がその権限を握っていたからではない。当然、薩摩藩首脳の裏書でなければ効力は乏しいのだが、それは不可能だったのだろう。
 龍馬は少しも相違はないと、堂々と朱筆で記してくれたが、こんなものは気休めに過ぎないことを木戸自身が一番良く知っていたはずだ。押し寄せてくる長州再征軍を撃破し、藩主の罪を雪いでこそ、初めて長州藩は薩摩藩と対等な舞台に立てるのだ。

(P205〜6)
薩長同盟成立時においては長州の立場は薩摩より圧倒的に下、坂本龍馬は薩摩の一介のエージェントというのが、歴史の実像に近いのであろう。後の第二次長州征伐における勝利、戊辰戦争における奇兵隊他長州勢の活躍と、西南戦争における薩摩の自滅があったから、今日のわれわれには薩摩と長州が対等に近いというイメージがあるのだろう。
先の斉藤佐次右衛門が「龍馬になりそこねた男」と形容されたのは、もし晋作が斉藤の話に乗って京都二本松ではなく琴平で薩長同盟が一足早く成立していたら、龍馬の代わりに斉藤の名が残っていたかもしれないということだったと思う。
それらを踏まえたうえでなお、坂本龍馬がその時代的制約の下で成し遂げた仕事は巨大であり龍馬はやはり偉大だというのが私の認識なのだが。
つか名前を知られていなくても大きな仕事をした人は、明治維新期ほかあらゆる時代にいることを忘れないようにしようと思う。
同書からもう一人、人名を。長州藩が対幕府主戦論の「正義派」と幕府との融和を唱える「俗論派」に分かれて対立していた時、両派の和解のために奔走・尽力した赤祢武人について、第七章で多くのページが割かれている。高杉の新地会所襲撃に始まる一連の武力クーデターにより「正義派」が藩の主権を掌握した後、赤祢は「裏切り者」のレッテルを貼られて斬首されてしまう(P181)。
このあまりにも気の毒な赤祢については、同じ著者の『長州奇兵隊―勝者のなかの敗者たち (中公新書)』でも一章が割かれていた。こちらも最近再読したのだが、記述を比較してみたいと思って本を探しているのだけど見当たらない。まあすぐ出てくるだろうけど。
書名の高杉のことをあんまり書かなかった。
追記:10/21
『長州奇兵隊』には赤祢武人はP136以下に記述があり、明治期の名誉回復運動が山形有朋によって潰されたエピソードなど、こちらの方が詳しいです。ただし略字の赤祢ではなく正字で赤禰と記載されています。
さらに同じ著者の『司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰、龍馬、晋作の実像 (集英社新書)』P154にも記述がありましたが、なぜかこちらは赤根と書かれていました。同じ著者なのに全部字が違うのは、なぜだ?(こういう細かいことをほじくり返すのが好きなので)
追記の追記:2015/01/26
一方で、薩摩藩もまた幕府によってギリギリまで追い詰められていたことも事実だと思う。岐阜県南部出身者としては江戸中期の「宝暦治水」というのを決して忘れることはできないし、琉球経由の大陸密貿易が発覚していたこととか、あと江戸後期に桜島の大噴火があったことも薩長同盟成立に影響を与えたはず。火山灰に痛めつけられていた薩摩が喉から手が出るほどほしかったはずのコメは、「防長四白」の筆頭に数えられる長州名産の一つ。
こういう今でいうwin-winの契約が成立する現場を目前にしたからこそ、岩崎弥太郎のような超巨人が亀山社中から世に出たんだろうなと思う。岩崎を世に出すきっかけをつくったという一点だけでも龍馬はやはり偉大だった、とフォロー(小心
※ はてなブログには下記新規エントリーを公開しました。
『冗弾の射手(その11)』

長州奇兵隊―勝者のなかの敗者たち (中公新書)

長州奇兵隊―勝者のなかの敗者たち (中公新書)