🍉しいたげられたしいたけ

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続・活字から得た知識は案外あてにならないということ

直近に読んだ本から。
島田裕巳『神も仏も大好きな日本人 (ちくま新書)
タイトルからはすぐには想像できないけど、日本の宗教はもともと「神仏習合」ということで仏教と神道がほとんど一体不可分に結びついていて、それを近世において「神仏分離」つまり無理やりに切り分けたことにより様々な歪みを生じていることを論証した本なのだが…

読んでいて「あれっ!?」と思ったのが、次のくだり。

「多度神宮寺伽藍縁起幷資財帳」によれば、七六三(天平宝字七)年、満願禅師という私度僧が多度神社の東に道場を建立し、丈六〔じょうろく〕(釈迦の身長が一丈六尺〈約四・八五メートル〉あったというところから、一丈六尺)の阿弥陀仏を造立したところ、多度神の神託が下り、「吾れ、久劫〔きゅうごう〕を経て、重き罪業を作し、神道の報いを受く。今冀〔こいねがわく〕は永く神身を離れんが為に、三宝に帰依せんと欲す」とあったという。

(上掲書P66)
お釈迦さまの身長が一丈六尺なんて説あったっけ(確認のためぐぐったら、あるらしい)?しかし丈六ときたら、お釈迦さまを引き合いに出す必要はなく、阿弥陀さまご本人(ご本仏?)のことでしょ?浄土教の根本経典の一つ『観無量寿経』に「阿弥陀さまの身長は、本来、宇宙全体に充満するほど巨大なのだが、それでは常人には想像できないので、一丈六尺または八尺となられる」というくだりがある。
『観無量寿経』でぐぐったら原文が出てきた。
http://www.icho.gr.jp/seiten/html/111.html
「阿弥陀仏、神通如意にして、十方の国において変現自在なり。あるいは大身を現じて虚空の中に満ち、あるいは小身を現じて丈六八尺なり。」(読み下し文)
そりゃ私だって、基本文献とか古典とか名作とかを「読んでいない」ことにかけては人後に落ちないから他人のことは言えないが、『観無量寿経』は短くて現代語訳なら30分もあれば目を通せる。それにしても、浄土宗・浄土真宗・時宗などの各派を合計すると間違いなく日本一の信徒数を持つ宗派なのだが、その根本経典に目を通していないらしい「宗教学者」って、アリなの…?

そうやって疑いの目を向け始めると、次々と怪しいところが見つかり始める。
上記に続いて、次のような箇所がある。

その私度僧の作った阿弥陀仏に多度神が下り、その口を借りて語り出した。自分が神になったのは重い罪を犯したからで、その状態から逃れるために仏教に帰依したいというのだ。

「多度神宮寺伽藍縁起幷資財帳」のことは、以前に読んだ義江彰夫『神仏習合 (岩波新書)』開巻一番の第1章に出てきたので知って、後に熱田神宮宝物館で実物を観る機会に恵まれた。
そんなことが書いてあったっけ?なんか記憶と違うぞ。
ネットで検索すると、全文が出てきた!(゚Д゚;
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/070101.html
原文は「于時在人。託神云」だから、仏像がしゃべったのではなく「人にのりうつり」(『神仏習合』P11)託宣を下したのだ。
また島田本では多度神は輪廻転生により罪業の報いを受けて神になったというが、義江本では「長きにわたって(神として)この地方を治めてきた結果」重い罪業を受けるに至ったと説明されている。これも原文は「吾経久劫作重罪業。受神道報」となっており、これ以上詳しいことは書かれていないからどうとでも解釈はできるのだが、義江本が正しいんじゃないのかな?「輪廻転生」も仏教の概念だが、「無始」すなわち始まりのない永い永い過去というのも仏教の概念なのだ。仏教にはビッグバンはない。

島田本p65には、「多度神宮寺…」が、神宮寺の縁起としては最も古い資料(史料?)だと書かれているが、これもちょっとぐぐったら、上田正昭京都府埋蔵文化調査研究センター理事長(京大名誉教授)の論文がpdfで出てきて、気比神宮寺の由来を記した「武智麻呂伝」は天平宝字4年(760)ごろに書かれたとあるではないか!(「多度神宮寺…」は延暦20年(801))
http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/23ueda.pdf

あと、如意輪観音と弥勒菩薩を論じたくだり(p107〜)でも、ずいぶんと怪しいところが目に付いた。
いろいろと書きたいことはあるが、決定的な1点だけ。
「未来仏は弥勒菩薩だけである」(p115)
なわけねーだろ!『法華経』では舎利弗、摩訶迦葉ら仏弟子は、片っ端から「授記」と言って未来において仏になるという予言を受ける。例えば舎利弗は華光如来という仏様になられるんですよ(『法華経〈上〉 (岩波文庫)』p146〜)。
そもそも未来仏が弥勒菩薩だけだったら、我々は誰も成仏できないじゃないか!(できるのか? (゚_゚;
それにしても、『法華経』を根本経典とする宗派は、天台宗・日蓮宗・日蓮正宗などを合計すると、多分浄土系に次ぐ日本第二位くらいの規模になるんじゃないかと思うけど、その根本経典に目を通していないらしい「宗教学者」って…
そりゃ『法華経』は『観無量寿経』よりはずっと長いけど、なに中味はスカス…ケフンケフン

さらに、これも気に入らないから突っ込んでおこう。
「仏教は、台頭してきたヒンズー教に対抗するため、ヒンズー教の実践であるヨーガなどを取り込んでいく」(p128)
瑜伽唯識の大成者として知られる世親(天親、ヴァスバンドゥ)は、生没年不詳ながら紀元300-400年頃の人とされる。いっぽうヒンズー教は、ウィキペによると(もうちょっとマシなソースはないかと思いつつ、『ヒンドゥー教―インドの聖と俗 (中公新書)』なら持っているが、どこにしまったかすぐには出てこない)
ja.wikipedia.org/wiki/ヒンドゥー教

グプタ朝はチャンドラグプタ2世(在位紀元385年 - 413年)に最盛期を迎えるが、このころに今もヒンドゥー教徒に愛されている叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がまとめられるなど、ヒンドゥー教の隆盛が始まった。

まさか世親が385年から15年ほどの間にヒンズー教からヨーガを取り入れて瑜伽唯識を完成させ亡くなったわけではあるまい。ヨーガはヒンズー教の分化・成立よりずっと古くから、仏教に限らずインド宗教各派の修行として用いられていたのだ。

学者にはgeneralistとspecialistがいると言われる。本書「はじめに」には「浄土真宗の研究者は浄土真宗の教団や親鸞に関しては深い知識と見識を持っているが、それ以外の宗派には詳しくない」という意味のくだりがある(p11〜12)。著者は明らかにgeneralist志向なのだろう。
以前にも、岡田斗司夫『「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書)』とか、大瀧啓裕『エヴァンゲリオンの夢―使徒進化論の幻影』とかを読んで、これらの著者は圧倒されるほどの博識でありながら、細かいところは突っ込みどころだらけだなと思ったことがある。それぞれ一部はエントリーにした。generalstは、細かいことにこだわらなくてもいいものなのかも知れない。

ただしこの著者の場合のように、葬式不要論であるとか、かつてのオウム擁護論であるとかの、クリティカルつかデリケートな論陣を張るのにこんなオオザッパでいいのか、って疑問は当然出てくるけどね…(-_-;